2007年

ーーー1/2ーーー 家族麻雀

 穏やかな日和の元日であった。帰郷している子供たちと雑談をしているうちに、ひょんなことから麻雀をやろうということになった。

 昨年亡くなった父は麻雀が好きだった。父が持っていたパイが有ったはずだと探したら、押し入れから出て来た。麻雀の参考書も見つかった。かくして、私と子供三人で家族麻雀の運びとなった。家内はパートで出勤のため、昼前に居なくなっている。

 私の麻雀は、学生時代にちょっとやっただけだが、言わば不得意科目であった。いつも負けてばかりで、卓を囲む仲間たちをシラケさせる存在であった。自分が勝負事やギャンブルに全く適性が無い人間であることを、麻雀をするたびに思い知らされたものである。

 大学生の息子は、囲碁は強いが麻雀は付き合い程度らしい。社会人の長女は、つい最近職場の仲間から手ほどきを受けたとか。高校生の次女は、もちろん経験が無い。初心者集団が、参考書を見ながら、おぼつかない手つきでパイを並べる。

 薪ストーブがちろちろと燃える室内に、窓を通して陽の光が差し込んでいる。ほんわり暖かくて気持ちが良い。私と息子は、正月のために取り寄せた清酒で茶碗酒。つまみの野沢菜に娘が手を延ばす。

 順番を間違えたり、気がついたらパイの数が合ってなかったりと、他人が見たら笑ってしまうくらい幼稚な麻雀である。それでも、「白板を考えついた中国人の発想はすごいね」などと余裕の発言が出たりして、我が家のカラーが出る。

 昼食を挟んで続けるはずだったが、息子が飲み過ぎで寝てしまい、お開きとなった。それでも楽しい三時間ほどであった。この先こんなことが何度あるかと思うと、いとおしく感じる時間でもあった。 



ーーー1/9ーーー 雪の朝

 前日まで地面が見えていて、樹々の梢も冬枯れの色であったのが、翌朝になると白一色の世界になっている。そんな朝が、冬の始まりの頃、突然訪れる。

 これほど短時間で大掛かりな景観の変化は、四季を通じて他には無い。しかも完全な静寂のうちに進行する。知らぬうちに別の世界に連れて行かれたような感じである。私はそのような朝の景色が好きだ。

 例年なら12月のうちに経験できるのだが、この冬は温暖な気候が続き、1月6日になってようやくその朝を迎えた。天気予報で雪となっていても、この地域ではどの程度降るか予測がつかない部分がある。一面の銀世界は、ある程度の驚きを伴って出現することの方が多い。

 以前知り合いのアナウンサーからこんな話を聞いたことがある。ラジオの番組で「ようやく本格的な雪が降りました。これでスキーも心配ないですね」などと言うと、必ず抗議の投書が来るというのである。その趣旨は決まって「雪が降れば困る地域がある。その苦労を考えずに、遊びのために雪を喜ぶのは良くない」というものだとか。そんな投書を寄越すのは、意外に雪の少ない、あるいは雪の降らない地域の人が多いとも聞いた。

 私の住んでいる場所は、大した降雪量にはならない。まとまった雪でも、せいぜい40センチくらいか。昔は一度に子供の腹くらいまで積もったと言うが、私が越して来てからの16年間では、そのような大雪はほとんど経験していない。

 大した雪は降らないが、困る事はある。まず除雪作業。これは、少々の積雪でもかなりの労力を要する。今回も二日続けて、家族総出で雪かきをした。若い人ならまだしも、この年になると大の男の私でも辛い。腰や背中を痛めることもある。次に困るのは車の運転。家内は路面が雪に覆われると、スリップが恐いと言って運転を嫌がる。それで、私がパートの職場への送り迎えをしたりする。

 しかし私は、非難されるのを覚悟で言うのだが、雪が好きだ。なんと言っても美しい。そして静かだ。夕暮れ時にシンシンと降り続く雪を見ていると、寂しく沈んだ気持ちになるのだが、それがまた美しい。また、ひとしきり雪が降った後の昼間、雲が切れて青空が広がり、太陽の光が雪面に差すときなど、その美しさは歓喜の歌を連想させる。

 大量の降雪があり、一冬を雪の下で暮らさなければならない地域がある。そこに住む人々の気持ちは、私などには分からない。しかし、これはあくまで想像だが、豪雪地帯の住人は、雪と共に暮らすことに特別な思いがあるのではないか。それは雪に対する嫌悪感や憎しみだけでなく、逆の面もあるように感じられる。

 雪国の人々には、問われれば「雪は嫌だ」と応える表面的な反応とは裏腹に、深い部分では意外と雪に対する愛着のようなものがあるという話を聞いたことがある。雪が少ない冬には、年寄りがボケてしまうとの話もあるそうだ。自然の圧倒的な威力は、それが生活に好ましいものであれ悪しきものであれ、人に深遠な気持ちを抱かせる。雪にもそのような、理屈を越えた魅力のようなものがあるのではないだろうか。



ーーー1/16ーーー 硫黄島の映画

 映画「硫黄島からの手紙」を見た。特に関心も無かったこの映画を見るきっかけになったのは、「散るぞ悲しき」という本を読んだこと。硫黄島の最高司令官だった栗林中将の生き様を記した、ノンフィクション・ノベルである。

 この手の本を、私はほとんど読んだことがない。というより、避けるようにしていた。読むことによって、忌まわしい歴史を正当化するような心情になってしまうことを恐れていたのである。

 知り合いの人が「この本は良かった」と勧めて、貸してくれたので、読むことになった。そういう状況が無ければ、やはり読むことのない本だったと思う。

 本の内容は、驚くべきものだった。硫黄島の戦闘については、小さい頃から耳にしていた。「米軍の激しい艦砲射撃により、島の形が変わってしまった」という表現が、過酷な戦いを象徴するものとして、記憶に残っている。しかし今回の本を読んでみて、硫黄島の戦闘について今までほんの僅かしか知らなかったことを気付かされた。軍の上層部が指示した防衛戦の実態は、壮烈というより無惨という言葉が当てはまる。わずか22平方キロの、水も食料も取れない島に、2万人を越える日本兵がひしめき、不満足な装備で戦い、ほとんど全員が戦死したのである。まさに驚くべき悲惨な事実である。

 米軍が上陸直前まで加えた猛烈な爆撃と艦砲射撃により、「黒こげのステーキ」のようになった硫黄島。その島の姿を映像で見たくて、映画館へ足を運んだ。

 テレビ番組「ローハイド」の準主役や、映画で暴力警官の役をやった俳優が監督をした映画に、あまり期待はしていなかった。その心づもりは当たっていた。この映画を見ただけでは、硫黄島の戦闘の全貌は見えてこない。きわめて行き届かない映画である。詳細な事実を記した本を読んだ後だったので、その不満感は大きかった。

 ただ、一つ印象に残るシーンがあった。ある部隊が、洞窟の中で集団自決をする場面である。死にたくないが仕方なく、泣きながら手榴弾のピンを抜く兵士がいた。

 私の母の父親の弟にあたるS叔父さんは、満州北部の部隊で終戦を迎えた。終戦の連絡を受けた部隊長が、集団自決を指示し、S叔父さんも亡くなった。もう戦争は終わっていたのに、である。母はその話をするたびに、軍隊というものの理不尽さを嘆き、罵っていた。S叔父さんは、将来を嘱望された優秀な青年だったそうである。

 映画のシーンを見て、S叔父さんも泣きながら死んでいったのかと思った。



ーーー1/23ーーー サケの論文

 新聞の地方版を読んでいたら、19日付けの記事で「信州フィールド科学賞」なるタイトルが目に入った。これは信州大学の山岳科学総合研究所が本年度に新設したもので、山岳地域の野外調査に励む若手研究者を奨励するためのものだとか。今回の受賞は、海から川をさかのぼるサケの死骸が上流域で生態系に及ぼす影響について研究した、北海道工業大学の研究が選ばれた。

 審査員の談話によると、「生物の餌となる有機物の供給が、『川から海へ』だけでなくサケにより海から上流域に戻り、循環することを精度の高いデータで明らかにした」ことをユニークな着眼点として高く評価したとのこと。 

 どこかで聞いたような話である。「木と木工のお話」の第20話「森林は金の卵を生むニワトリ?」  をご参照願いたい。

 学者先生の論文だから、私ごときの情緒的、感覚的な駄文とはかけ離れた世界のものであろう。論文の内容を見てみたいと思い、大学に照会したが、今のところ入手できていない(注 : その後著者の先生から論文を送って頂いた)。

 しかし、新聞の記事を見た限りでは、私が頭の中で思いめぐらしたことが、学術的に裏付けされたように感じて、嬉しい気がした。

 この正月に帰省していた息子と、同じようなテーマで話をしたことが思い出された。彼は物理学科の学生である。

 私が、重力に抗う生物の行為は、生態系が命じる循環の指令であると、いつもの論を展開した。それに対して息子は、大規模な地殻変動や造山活動でも無い限り、重力に対する生態系の抗争も、いずれは終焉の時を迎えるとの見解を示した。「いつまでも存在する」ことはありえないという事だけが確実に存在するのだと。

 話は脇道にそれ、中高年登山者が山に殺到する現象について議論した。これも生態系が命じる反重力闘争の一端ではあるまいか。中高年登山者が山上にもたらすおびただしい量の排泄物。それをところ構わずまき散らす行為は、一般的には自然環境の汚染・破壊と言われている。しかし、長い目で見れば、自然界における有機物や微量元素の循環につながるかも知れぬ。中高年登山者もサケと同様、生態系の神の命令によって動く「運び屋」なのではないか、と。

 こんな話題に時間を忘れて打ち興じる、へんな親子である。


 
ーーー1/30ーーー 墓参り

 父の一周忌の27日、墓参りに行った。墓は御殿場の富士霊園にある。二十数年前、母方の祖母が亡くなった時に、父が建てたものである。この墓に入るのは、父が二人目となった。

 娘は公開模試のため登校したので、家内と二人だけで家を出た。中央高速道をゆっくり走り、三時間半ほどで到着。心配された天気は予想を外れて好転し、霊園は穏やかな陽光に包まれていた。春のような暖かさであったが、富士山だけは真っ白く雪をまとい、山頂付近には荒々しく雪煙が上がっていた。

 墓前に花を生け、好物だったビールを供えて手を合わせた。

 この霊園は、全て同じ形の墓石が、整然と列をなして並んでいる。墓の大小で差を付けることはしない。死後の世界まで世俗の競争を持ち込ませないとの趣旨だと聞いた。そんな霊園であるから、墓石に刻まれた文字にも面白いものがある。ほとんどは「○○家の墓」と書いてあるのだが、中には「静」とか「夢」とかの一字を刻んだものがある。「山に向かって叫ぶ」などと文章になっているものもある。また、音楽家の家庭だろうか、バイオリンの絵が描かれたものもある。さらには抽象画のようなものもあった。ちなみに我が家の墓には、父の発案で「天地悠久」と刻まれている。

 時間に余裕があったので、帰路は一般道で富士五湖方面を回った。観光シーズンなら車が数珠つなぎになる街道も、この時期は静かなものである。山中湖、河口湖、西湖と順番に、湖岸の道を走る。静かな湖面の向こうには富士山が、まるで周囲の景観を一人で支配する王のようにそびえていた。富士の裾野が西に延びた先、傾斜が平らになったところに、一塊の峰があった。西湖の湖水の向こうの空の下で、その峰は地平線の上に浮かぶ島のように見えた。その景色は、雄大な姿で迫る富士山とは対照的に、なんだか遠い記憶のような、遥か昔のあこがれのような、懐かしい気持ちを起こさせた。

 精進湖からルートを北に取り、峠を越えて甲府盆地に抜けた。甲府南インターで高速に乗り、日が沈む頃安曇野へ帰り着いた。たまには妻と二人きりのドライブも良いものだ。父の墓参りの余録が、思いがけず楽しい小旅行となった。 





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